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3章「白濤の港町」

港町〈グランツ〉での海漩竜〈アビスオフィリアン〉騒動を終え、リヴァナ達の計らいでその日をゆっくりと過ごす事が出来たフィリア達。
一方、食後に別れたヴィレムは、一人ベレスフォード診療所向かう。

※※ この話には『自傷行為』 の描写があります。該当箇所のこの文字色のテキストを押すと描写が重くなります。(初期状態OFF) ※※

→ 初期状態は非表示です/もう一度押すと消えます

 日は落ちて、夜風が心地良い時間。
 夕食後にヴィレムはフィリア達と別れ、1人港町〈グランツ〉を歩いていた。

 向かう先は、ベレスフォード診療所。

 崖の上に建つその建物は、港町グランツの他の建物とはどこか趣が違っていた。
 白木の外装の、落ち着いた佇まいの診療所だ。

 まだ明かりが灯っている。
 ヴィレムはエントランスのベルを鳴らした。

 ……返事はない。

 扉に手をかけると、戸は静かに開いた。
「ごめんくださいませ」

 そっと中へ顔を覗かせる。
 診察室の机に頬杖をついたまま、レイが目を閉じていた。

 眠っているのだろうか。
 ヴィレムが一歩踏み出した、その時。
 レイは目を閉じたまま口を開いた。

「あんな騒ぎがあったのに、よく来れたわね」
「入口には『診察中』とありましたが」

 レイはゆっくりと振り向き、目を細める。
「もう、閉めるわよ」

 対するヴィレムは、いつも通りの貼り付けたような笑みを浮かべた。
「少し、お話がしたく。 よろしければ、お茶をお入れしますが」

 レイは何も答えない。
 本当なら、もう診療所を閉めたい。
……今日は、もう。

 けれど、彼は引かなかった。

「はぁ…………」

 レイは深くため息をついた。
 ヴィレムは、彼女が露骨に面倒くさそうにしていることに気付く。

「分かりました。手短にいきましょう」

 ヴィレムはうっすらと笑みを浮かべた。
「貴方でしょう? 島に行かせるよう誘導したのは」
「何の事かしら」

 レイはしらを切る。
 ただ、冷静に言葉を返すだけだ。

「皆様は気が付いておられませんが、私の目は欺けませんよ。……『不死身の石』とトレジャーハントの件は、予想外だったかもしれませんが」
「だったら? じゃあ、あんたが最後まで謎解きするって事?」

 レイは眉をひそめる。

「そうなりますね。」
 ヴィレムは穏やかな声で続けた。

「いかなる時でも、主の為に動く。 それが従者である私の務めですから」

「そう」

 レイは気怠そうに、椅子から立ち上がった。
 そして、指を鳴らした。
 一瞬だけ指先に黄色の電撃が見えたような気がした。

 次の瞬間。
 ヴィレム目掛けて、数本のメスが飛んだ。
 ヴィレムは軽く身をひねり、刃を避ける。

「何のつもりですか」
「……」

 レイは何も答えない。
 ヴィレムが一歩踏み出す。

 その足元で────『ぴちゃり』と小さな水音がした。

「……?」

 僅かに床が濡れている。
 その瞬間。レイは床に手をついた。

 ぱちん、と小さく火花が散る。
 次の瞬間、床を走る電流。

「なっ……」
 ヴィレムの体が強張る。

「科学的に水は電気を通しやすいって知ってる?」
「っ……!」

 レイは怯んだヴィレムへ歩み寄る。
 そして胸元を押し、突き飛ばした。

 ヴィレムは後ろに倒れ込む。
 その隙にレイは彼の手首を踏みつけた。

 ……いや。
 踏んだのではない。
 ヒールの底の空洞に、ヴィレムの手首を挟み込んでいた。

 床と靴底で固定された状態だ。

「……油断しました」

 ヴィレムは小さく息を吐く。

「まさか戦えるとは」

「戦えないわよ。医者だから」

 レイは、肩をすくめた。

「……でもね、自分の身は自分で守らなきゃいけないの。それを考える頭は持ってる」

 レイはヴィレムの上から見下すように、自分の頭を指差しながら答えた。

 そして、腕を組んで、
「あんた、何考えるの。本当に薄気味悪い」

 ヴィレムは薄く笑う。
「お医者様ですからね…… 頭の回転もさぞ早いのでしょう」

 ヴィレムの左手は拘束されたまま。
 それでも、動揺はほとんど見えない。

「……どうする?」

 レイは淡々と言う。

「このまま痺れさせて外に放り出してもいい。 それとも、今日の実験台になる?」

「どちらもお断りします」
 ヴィレムは静かに答える。

「先程言った通り、あなたの思惑を解いてから────」

 その瞬間、レイの表情が変わった。
 氷のように冷たい顔。

「図に乗るな、小僧」
 低く、冷たい声。

 レイはヴィレムの胴に手を当て、電撃を流した。

「……!?」
「あたしの邪魔をするな」
「ぐっ…………っ!」

 ヴィレムの身体が強張る。
 レイは眉をひそめた。

「はぁ、あんた何者? こんなに電気浴びても気絶しないなんて」

 ヴィレムは苦しげに息を吐きながら、薄く笑う。
「っ………………ふふ……私は毒にも痛みにも強いのですよ。昔から」
「大人しく薬飲ませておけば良かったわね」

 レイは手を振る。
「お陰様で私の手も痺れてるわよ」

 どうやら出力を上げて電撃を流したらしい。
 その反動で、彼女自身の腕にも負担がかかっているようだった。
 レイは手首を軽く振る。

 その時。
 反対の腕に嵌められた腕輪が、一瞬だけ光った。
 ヴィレムは、その僅かな光を見逃さなかった。

「……腕のしびれは取れましたか」
「はぁ? あんた何言ってんの?」
 レイが眉を上げる。

「いえ、私には自分にも影響が及んでいるように見えましたから」

「…………」

 レイは鼻で笑う。

「自分の心配でもしたら? あたしは怪我したってなんともないんだから」

 ヴィレムは淡々と彼女を見上げる。
 レイは気味の悪さを感じながら、腕を組んだ。

 そして──
 無意識に、手首へ触れる。

 その動作を、ヴィレムは見逃さない。

「(……なるほど)」

 確信はない。
 だが、ひとつの可能性に辿り着く。

 彼女の嘘は、誠の嘘か。
 それとも真実か。

 もし真実だとすれば。
 その“嘘の根”は、彼女のすぐ傍にある。

 ヴィレムはゆっくりと指を動かし、自分の身体が動くか確かめる。
 そして────
 いつもの貼り付けた笑顔。

 いや。
 それよりもずっと酷い、満面の笑みを浮かべた。

「レイ先生」
 にこやかに言う。

「こちらからの眺めは、とても良い眺めですよ♡」

「……は?」

 レイは一瞬きょとんとする。
 ヴィレムはそのまま下から彼女を見上げる。

 レイの脚はとても綺麗だった。
 すらりとした脚はピンヒールにより一層美しい線を描く。加えて、女性的なしなやかな体躯。
 黒のタイツから透ける肌はとても艶やかに見える。

「なっ……」

 レイは咄嗟にスカートを押さえ、よろめく。

 その瞬間。
 ヴィレムの手首を固定していたヒールの位置がずれた。

 ──狙い通り。
 ヴィレムはするりと手を抜く。

 一方レイは、バランスを崩しかける。
 ピンヒールが滑ったのだ。

 倒れそうになった瞬間。
 ヴィレムが腕を伸ばす。

「大丈夫ですか? 先生」

 ヴィレムは何事もなかったように微笑む。
 今度はまるで、年頃の青年のような顔だった。

「っ……あんた! 気色悪い上に、色気で揺さぶるなんて…………っ!」
「私はどこも見ていませんよ」

 ヴィレムは平然と言う。

「ずっと貴女の顔を下から眺めていただけです」

 そして、静かに続ける。

「もし私が女性の身体を眺める時は──── 相手を見つけた時だけですから」

レイの眉が吊り上がる。
「……あんた、最低よ……!」

 彼女はヴィレムを突き放そうと手を上げた。

 その瞬間、ヴィレムが手首を掴む。

「らしくないですよ」
「あんたがそうさせたんでしょ」
「…………ふふ」

 ヴィレムは俯き、肩を揺らして笑う。
 そして静かに言う。

「不死身の石……」

レイの瞳が僅かに揺れる。

「お宝は、最初からあの島にはなかった。 そうじゃないんですか?」

 沈黙。

「…………それで?」
「だから、確かめに来たのです」

 普段の彼なら、こんな乱暴な真似はしない。
 ましてや女性相手には。

 だが、彼女は容赦がない。
 だからヴィレムも、遠慮をやめていた。

「痛っ……ちょっと何すんのよ」

「これですかね」

 ヴィレムは彼女の腕輪を見つめる。

「っ……触んな!」

 レイはお得意の電撃でヴィレムの腹部に触れようとした。
 しかしヴィレムは、それを予測していたかのように身を引いて避ける。

「そう簡単には明かしてくれませんよね」

 ヴィレムは小さくため息をついた。
 そして身体に装備している小型ナイフではなく、腰から中型ナイフ『アディシェス』を抜く。

「な……まさか、それで」
「そんな、これで貴方を切り刻んだら犯罪者ですよ? まさか」
 ヴィレムは柔らかく笑う。

「何を……」
「貴方が悪いのです」

 その笑みは、どこか狂気を含んでいた。

「貴方が私達を、無理に試すから」

 そう言った次の瞬間。
 ヴィレムは『アディシェス』を──自分の首へ当てた。

「な……」

 そして躊躇なく刃を引く。

ヴィレムは自らにナイフを突き立てた。

→ ヴィレムは自ら血流の多い動脈付近を切った。

血が流れ落ちる。

 流石のヴィレムも身体がふらつく。
 首元には赤い染みがみるみる広がっていく。

 それでも、彼は笑っていた。

『さぁ、どうしますか先生』

 そんな黒い思惑を含んだ笑み。

「何……してるのよ……あんた……!」
 レイの表情が変わる。

「馬鹿なの!?」

 彼女は慌ててヴィレムに駆け寄り、首元を押さえた。

 血を止めようとする。
 だが傷は深い。
 止血が追いつかない。

「(手が……足りない……)」

「ふふ……」

 ヴィレムは不気味に笑った。
 痛みを耐えながら。

 狙っている『その一瞬』を見逃さないように、意識を必死に保つ。

 一方、レイは心の中で戦っていた。

 頭の奥に響く声。
 消えない記憶。
 そして、過去の傷。

 『お前が……姉さんを殺した! 見殺しにしたんだ!』
 『……』
 『ごめんね、レイ。貴方は悪くない。だから、いつか……私と同じの人を治してあげて』
 『嫌だ……』
 『レイに不可能は無いものね!』
 『嫌だ…………絶対に死なせない』

 レイは心の中で必死に叫んだ。
 大切な人を助けられなかった。
 それを最後に、絶対に見殺しにはしない。
 そう誓って、今ここにいる。

 『絶対に死なせない……!』

 レイの手首にあるブレスレットが眩く橙色に輝く。
 暖かな光が溢れ出す。

 その光は、ヴィレムの傷へと吸い込まれるように広がり──
 流れ続けていた血が、みるみる止まっていく。

 あり得ない光景だった。

 魔術による治癒は、基本的に細胞を活性化させる程度。
 深い傷の完全な回復など、本来は不可能だ。

 だが、この力は違う。
 傷そのものを、なかったかのように修復していく。
 それは、明らかに『特別な力』だった。

 昼間、海漩竜〈アビスオフィリアン〉の襲撃で致命傷を負った少年を救った──あの力。

「(……読み通り)」

 ヴィレムは心の中で笑った。
 ……彼は、レイの医者としての正義感を煽った。

 身を呈して。
 命を賭けて。
 彼女に力を使わせるために。

 ひねくれた性格の彼女なら、
『自分のせいでこうなった』と思えば、逆上してでも治す。
 そう、読んでいたからこそ。

 実際には、彼女の心の傷を逆手に取ることになったが──

 レイは治癒を終えると、無言で治療を続けた。
 ヴィレムが自分で刻んだ残りの傷を、淡々と処置していく。

 縫合が必要な場所や、治癒魔術でどうにかなりそうなところは魔術で。

 気を抜くことも、手を抜くこともない。
 その姿はまさしく──
 ──医者だった。

 普段の捻くれた態度からは、想像もできないほど真剣な。

「……動くな」

 淡々とした声。

 ヴィレムは息を殺していた。
 そのまま背を向けた姿勢で座っている。

 レイが縫合の準備をし、首筋のあたりに手を伸ばした時だった。

 ふと、視界に黒い模様が入る。

 首の裏。
 薄く覗く、見慣れない刺青。

 レイの手が、ほんの一瞬だけ止まった。

 その僅かな違和感を、ヴィレムは見逃さなかった。

「……見ましたか」

 低く、静かな声だった。
 部屋の空気がわずかに張り詰める。

 レイは糸を針に通しながら、肩をすくめた。

「あたしは医者よ」

 顔も上げずに言う。

「患者は誰でも治す。あんたが何者だって関係ない」

 そして、針先を傷口へと向ける。

「それに──」

 少しだけ間を置いてから、続けた。

「安心しなさい。あたしが見るのは患者だけ。あんたが何者かは関係ない」

 ヴィレムはしばらく黙っていた。
 やがて、小さく息を吐く。

 次の瞬間、レイは何事もなかったように言った。

「深いわね。縫うわよ」

 それ以上、何も言わなかった。

「……はぁ」

 やがて処置が終わる。
 薄れゆく意識の中で、ヴィレムが呟いた。

「やっぱり、あなたの腕輪……だったじゃないですか……」

 レイは睨みつける。
「……黙れ。患者は寝てろ」

 ヴィレムは最後まで笑っていた。
 レイはヴィレムを眠らせた。
 その後、血で汚れた床と衣服を片付け始めた。

 診療所には、再び静けさが戻る。

 滞在7日目──
 翌朝、ヴィレムは目を覚ました。

「(……寝過ぎましたね)」

 自分でもそう思う。
 普段のヴィレムは、ほとんど熟睡しない。
 過労で倒れるか、気絶でもしない限り、ここまで眠ることはない。

 身体を起こそうとしたその時。
「目が覚めたなら帰りなさい」

 不機嫌な声が降ってきた。
 レイが腕を組んで立っていた。

「ていうか、あんた本当に化け物? 何でああなっても意識あるの?」

 レイは呆れたように続ける。

「あれ、自殺行為よ」

 ヴィレムは少しだけ眉を寄せた。
 頭が重い。
 普段より声が掠れている。

「私とて……あれだけ血が出れば貧血になります」

 ゆっくりと身体を起こす。
「……歩けない事もありませんが」

 レイは黙ってヴィレムを見ていた。
 そして、ため息を吐く。

「……やっぱり前言撤回。理由を聞くまで帰らせない。話しなさい。何であんなことをしたの」

 鋭い目で言った。
 レイは怒っていた。

 ヴィレムは淡々と答える。

「全てはフィリア様の為です」

 顔色は悪い。
 それでも、笑顔だけは崩れない。

「今回の件、貴女の機嫌を損ねれば、あの方の旅路も、アルト様の妹様の件も頓挫する可能性がありました」

 ゆっくりと言葉を続ける。

「私はあくまで、あの方の従者です。国に命を捧げる身ですから」

 レイは冷たく言った。

「それは建前でしょう」

 目を細める。

「見くびらないで」

「あんたの本音は何?」

 少し声を強める。

「何も思わずに命を賭ける人間なんているわけない」

 ヴィレムは天井を見上げた。
 少し考えるようにしてから、静かに言う。

「……そうですね。 確かに、そうかもしれません」

「取ろうと思えば、別の手段もあったでしょう」

 レイが短く言う。

「話せ」

 ヴィレムは続けた。

「貴方は医者だ。 人の命は捨てないでしょう?」

「仮にそう見えることがあったとしても、それは、手が足りない時か、力が及ばなかった時」

 レイは黙って聞いている。
 ヴィレムはゆっくり言葉を続けた。

海漩竜アビスオフィリアンが港を襲った時。 貴方が重症の少年を、その場で治しているのを見ました」

 レイの目が僅かに揺れる。
「……あれは、即死でしたよね」

 静かな声。
「それを治せるのは、魔術でも難しい。 仮に存在するとしても…… 禁術です」

 ヴィレムは薄く笑う。

「そこで思ったのですよ。私がフィリア様を迎えに行ったあの日…… 貴方は“身近な嘘”をついた」

 レイは何も言わない。
 ヴィレムは続ける。

「ただ、予想外でした。 野菜を届けに来た子供が、あの話を盗み聞きして…… トレジャーハントが始まるとは」

 ヴィレムは小さく肩をすくめる。

「……まぁ、これは憶測ですが」

 レイは低く言った。

「……あんた、まだ話さないの」

 ヴィレムは少し目を閉じた。

「……そうでしたね」

 ゆっくり目を開く。

「これはまだ、確信の話ではありません」

 ヴィレムはゆっくりと身体を起こし、ふらりとレイの前に立った。
 そして薄く笑う。

「私は、貴方の医者としてのプライドに…… この身を賭けました」

 静かな声だった。

「だって貴方は、瀕死の町民を助けるくらいには……人の死を受け入れない」

 少し間を置く。

「人の死を、恐れている」

 レイは黙ってヴィレムを見つめていた。

「(……この男は)」

 彼の言葉。
 彼の意識。
 その根源はどこにあるのか。

 あまりにも平然としている。
 あまりにも普通の顔で語る。

 ──狂っている。
 レイはそう認識した。

 そして、腹が立った。
 レイは拳を握りしめる。

 爪が食い込み、手のひらから血が滲んだ。

「あんた……」
 声が震える。

「ふざけてるの? 舐めてるの?」
 怒りが溢れる。

「……死んだらどうするのよ」

 ヴィレムは静かに答えた。

「……私の命は、主の為に」

 その瞬間。

 ──ぱんっ

 乾いた音が部屋に響いた。
 ヴィレムの頬が横に揺れる。

 レイが打ったのだ。
 彼女は震える声で叫んだ。

「あの子が……姫様が! それを許すわけないだろう!」

 息を荒くする。

「例えば、クソな親から生まれたとしても! 犯罪ばかりするクソだったとしても!」

 拳を握る。

「命の重さは同じなんだよ!」

 ヴィレムを睨みつける。

「命を放り投げようとした……お前の命も同じだ」

 低く言い放つ。

「立場で、身分で……命の重さを量るなんて愚問だ」

 そして、静かに言う。

「……自分から死のうとした愚か者だ。お前は」

 レイはゆっくり息を吐いた。

「本当に死ぬしかなくなった時……」

 目を細める。

「相当苦しめばいい。 死ぬまで耐える、その生き地獄を……しかと身に焼き付けろ」

 そして最後に、静かに言った。

「じゃないと許さない」

 レイは手のひらを開いた。
 爪が食い込み、血が滲んでいる。

「…………医者を舐めるなよ」

 低い声。

「小僧」

 レイの脳裏に、過去がよぎる。
 救えなかった友。
 その肉親から向けられた言葉。
 生きる希望を失い、命を投げ出そうとした自分。

 8年前。
 幼かったその肉親に言われた言葉。
 ──友の命を背負って生きろ。
 ──それがお前の義務だ。

 レイは。
 『生』という地獄の中で生きている。
 友を救えなかったことを枷として。
 己の業として。
 それでも、生きるしかない。

 ヴィレムはただ目を開いていた。
 しばらく黙ったあと。
 静かに、小さく笑う。

「……初めてですよ。人に怒鳴られたのも打たれたのも」

 一方、ヴィレムも──何かを思い出しているようだった。

 血まみれの黒装束。
 自分と似た茶髪の女性。
 その女は、返り血を浴びて
 ──悦んでいた。

 そして、フィリアの顔。
 西の国〈ノインシュテルン〉の国王・アルバートの姿。
 ……あの日の言葉。
 国王の顔が、脳裏に浮かぶ。

 レイは腕を組み、苛立ったように言い放つ。

「何度でも言うわよ。 育ちがいいのか悪いのか……そんなの私には知らない」

 ヴィレムを睨む。

「でもね。あんたみたいなやつが一番哀れだ」

 静かな声だった。

「人は生まれた瞬間から、死に向かう。それでも、生きなきゃならない」

 一歩踏み出す。

「辛いから? 主の為に死ぬ?」

 吐き捨てるように言う。

「ふざけるな。限りある命を全うするために、自分のために生きるんだよ」

 そして、低く言う。

「いいか。 生きるのは地獄だ。 そこから這い上がるのが生涯」

 レイは目を細める。

「死んだら負けなんだよ」

「…………」

 ヴィレムは珍しく言葉を失った。
 考えているのか。
 それとも、何も考えていないのか。
 表情からは読み取れない。

 だが、彼の頭の中には、血に濡れた記憶と、ノイズのような光景。

 そして、
 ──フィリアの存在。
 何かが、僅かに揺らいだような気がした。

 だが。

 そんなことに囚われてはいけない。
 自分の置かれた状況を理解し、的確に対処する。

 それが、今の彼の生き方だ。

 レイは大きく息を吐く。

「あんたには分からないだろうね」

 額を押さえる。

「はぁ……腹立ってムキになったわ………………疲れた」

 そう言うと、レイは入口の看板を裏返した。
 本日の診療、終了。
 まだ正午前だが。

 そのまま部屋へ戻り、白衣と上着を脱ぎ捨てる。
 薄着のまま、ベッドへと飛び込んだ。

「今日は終わり……ったく、疲れたわ」

 少し顔だけ上げて言う。

「あんたも早く休みなさい」

 ヴィレムは小さく笑った。

「ええ……男性の前でそんな……」

 レイは即座に言い返す。

「黙れ色男」
「そんな雰囲気でも無いでしょう」

 そう言うと、レイはそのまま、すぐに寝息を立て始めた。
 よほど気が張っていたのだろう。

 ヴィレムはしばらくそれを見ていた。
 そして、小さく息を吐く。
 彼もまた、まだ完全には回復していない。

 元いたベッドに戻ると、身体を横にした。
 そのまま、静かに眠りに落ちた。