3章「白濤の港町」
第45話「 最果ての灯火 - The Doctor Who Lights the Distant Flame. - 」
海漩竜〈アビスオフィリアン〉の騒動が落ち着いた後、フィリア達は翌日に備え宿屋へと戻る。
その後、ヴィレムは単独でレイの元へと『不死身の石』の話を確認しにいく。
これは、その後のお話。
昼前の診療所。
崖の下で波の音が響いている。
レイはふと目を覚ましたが、うとうとしながら、ヴィレムを見ていた。
「……寝たわね」
誰に言うでもなく呟く。
ふと、腕輪に触れた。
その瞬間──
遠い記憶が、脳裏によみがえる。
*
8年前。
蒼き星〈アステラ〉北部大陸、北の国〈ルフトガルム〉。
科学と学問の街〈シュトラール〉。
この国は寒冷地だ。
雪が降り、地面は凍りつく。
そのため建物は重厚な石造り。
あるいは、先進加工技術による鉄の建築。
だがそれらは、どこか冷たく、重苦しい。
その街にあるのが、学園都市〈シュトラール〉の中核──
『王立シュトラール大学』
魔術ではなく、人工技術を研究する学術機関。
数学、理学、物理、化学、医療、音楽、天文、
そして宇宙学。
北の国が誇る、最高峰の研究機関だった。
そして、
その大学に通う少女が一人。
柑子色のボブヘアが一際目立つ少女。
見た目は10代半ばくらいだろうか。
資料室で医学書を広げている。
「レイ」
レイと呼ばれた少女は、見向きもしない。
「レイチェル」
2度目にして振り向く。
「……ソニア。何」
「忙しかった……?」
「いや」
ソニアと呼ばれた少女。
リーフグリーンの長髪がふわりと揺れる。
黄金色の優しげな瞳が、レイを見つめる。
「今日も研修?」
「いや。……助手を頼まれた」
ソニアは目を見開き、嬉しそうにレイに抱きつく。
「やっぱりレイはすごいね」
抱きついたまま、
ほんの一瞬だけ、ソニアの呼吸が乱れた気がした。
レイは気付くが、何も言わない。
「……ソニア……知ってたでしょ」
「え? バレてた?」
「……助手なんだから、執刀する人も看護内容も知らされてるわよ」
「ふふ」
「久々に、レイと立てるから……ついね」
二人が話していると、資料棚の奥から、ひそひそと話し声が聞こえてくる。
「(……またか)」
レイは心の中で呆れる。
その様子を感じ取ったソニアが、そっと耳打ちした。
「気にすることないわよ。…………レイは認められて立っているんだから」
「それに、レイに不可能は無いものね! なんだって乗り越えてきたんだから!」
レイは大きくため息をついた。
そうは言われても、その事実があっても、人はソニアのような人ばかりじゃない。
『(気持ち悪い)』
レイの父親は、外科医の名家『ベレスフォード家』出身の権威ある医師だ。
母親もまた、優秀な看護師を多く輩出してきた家系の出身だった。
幼い頃から、見返りを求めて近づいてくる人間は多かった。
自分が女だから。
優秀な父と母を持つから。
その理由だけで寄ってくる人間を、レイは嫌というほど見てきた。
16歳になったレイもまた、両親譲りの卓越した頭脳と技術を持っている。
若く、しかも女性でありながら、研修医になれるほどの逸材だった。
もっとも、両親を特別尊敬しているわけではない。
幼い頃から嫌々勉強をさせられ、過剰な期待を押しつけられてきた。
正直、煩わしいと思うことも多かった。
それでも、それ以外の道を示されたことはなかった。
だから、医者になる道しか残っていなかった。
『ソニア』は同い年の幼なじみだ。
彼女は看護師を目指す研修生である。
父親は物理学の第一人者『ガレオス』。
母親は看護師。
そして祖母は、北の国で初めて女医になった人物だった。
二人は幼い頃から、何かと共に過ごすことが多かった。
互いに忙しい両親を持ち、大学附属の学校に幼い頃から通っていたからだ。
そんな境遇もあって、自然と一緒にいる時間が増えていった。
腐れ縁のような幼なじみだった。
「あー! レイお姉さん!」
遠くから、幼い少年の声が響いた。
レイは目を細め、手をひらひらと外へ払う仕草をする。
「……リブロ。どうしてここに」
ソニアは少年の頭を撫でながら尋ねる。
「どうしたの?」
「お話したかった。手術の話、聞きたかった」
『リブロ』と呼ばれた少年。
ソニアの弟で、まだ4歳だ。
姉と同じリーフグリーンの髪は癖が強く、ふわりと広がっている。
彼もまた頭が良く、学校の進度が合わないこともあって、大学の資料室や附属図書館で本を読みあさることが多かった。
姉の親友であるレイにはよく懐いており、時々こうして医学の話を聞きに来る。
「大人しく図書館に行って」
レイは面倒そうに言い、彼を追い払おうとする。
「やだー! お姉さんに医術の話聞きたい!」
「うっさい、ブロッコリー」
レイは昔から、人と関わるのを面倒に感じるタイプだった。
リブロは頬を膨らませ、ふてくされた。
「……分かったわよ。今度、解剖の練習見せてあげるから」
「ほんと?」
「良かったね、リブロ」
ソニアは弟の頭を撫でる。
そして、レイに柔らかく微笑みかけた。
「ありがとう、レイ」
ソニアは顔を合わせて話す。
「リブロはね、レイのことが大好きなの」
レイは顔をしかめる。
「やめて」
「だって本当でしょ?」
「うん!」
無邪気な少年の返事。
それが──
彼女たちの日常だった。
◇
そんなある日。
ソニアが倒れた。
運ばれた先は大学の病室。
白い天井の下、ソニアは静かにベッドに横たわっている。
レイは、彼女を見下ろした。
「……なんで教えてくれなかったの」
ソニアは困ったように笑う。
「ごめんね。ずっと隠してて」
それは未知の病だった。
生まれつきの内臓の病。
だが、この国の医学ではまだ解明されていない。
技術が発展し機関のプライドを守るために隠され、上層部だけが知る、機密の病。
だから、誰にも知らされなかった。
レイは目を伏せる。
嫌だった。
人に興味はない。
正直、どうでもいい。
だけど。
彼女が救えなかったら。
それだけは……嫌だった。
想像もしたくない。
病はすでに末期で、残された時間は、ほとんどない。
レイは残された時間で、必死に資料を漁った。
論文を読み、記録を調べ、可能性を探す。
だけど、大人たちは違った。
彼女を見放した。
自分たちの落ち度にならないように。
その病気を、ひたすら隠し続けた。
『汚い』
救えるのは、自分だけ。
できるかどうかは分からない。
それでも…………
やるしかなかった。
レイは独断で手術を行った。
あの時のことは、よく覚えている。
誰も手を差し伸べなかった。
冷たい手術室。
執刀しても、助手もいない。
メスを握るのも、器具を手に取るのも自分。
置いた時の乾いた金属音だけが、静かに響く。
すべてが、冷たく感じた。
◇
結果は──
間に合わなかった。
そして、罪を擦り付けられた。
ソニアは、最期にこう言った。
「ごめんね、レイ。貴方は悪くない」
掠れた声で、続ける。
「だから、いつか……私と同じの人を治してあげて」
「あとは、お願いね」
そう言って、彼女は最後まで笑い
──息を引き取った。
その後すぐ、責任はすべてレイに押し付けられる。
独断の手術。
患者の死亡。
上層部はそれを理由に、レイを追い詰めた。
自分たちの威厳を守るために。
ただ、それだけの理由で。
レイの家族も、彼女を見放した。
守ろうとする者は、誰もいなかった。
ただ『ベレスフォード』の名を守るためだけに。
特に、ソニアの母親は、レイを許さなかった。
彼女の母、つまりソニアの祖母は、かつて医学の権威だった。
だが一人の患者を救うために行った手術をきっかけに、汚名を着せられ、組織から追放された。
その出来事は、彼女の人生を大きく変えた。
そして今、同じように
自分の娘が手術で命を落とした。
だからこそ、レイを許せなかった。
そして、弟のリブロも。
「あんたが……お姉さんを見殺しにしたんだ!」
「見殺しにしたんだ!」
その言葉は、呪いのようだった。
やがて、レイは大学から追放される。
その出来事は、国の新聞記事にもされた。
独断の手術。
患者の死亡。
それが、彼女の罪とされた。
かつて、女性の医学者が追われたこともある。
そんな話を、レイは思い出した。
この国の学問の上層部は……
きっと、腐っているのだろう。
◇
もう居場所はない。
レイは荷物をまとめて、北の国の貿易船に忍び込む。
その船の行先は、港町〈グランツ〉だった。
……彼女にはそれを知る由もなかったが。
北の国の貿易船は、静かに港へ入った。
レイは船倉の暗がりで、膝を抱えていた。
港の喧騒が、遠くから聞こえる。
もう、戻る場所はない。
「……出てきな」
突然、頭上から声がした。
驚いて顔を上げると、白髪の老婆がこちらを覗き込んでいる。
「そんなところで丸まってたら、風邪ひくよ」
レイは警戒して黙っていた。
老婆は少し笑う。
「密航かい」
図星だった。
「……降ろされるなら、今すぐ降ろして」
レイはぼそりと言う。
「降ろす?」
老婆は肩をすくめた。
「もう港に着いてるよ」
外を見ると、見知らぬ港町が広がっていた。
「ここはグランツ。西の国〈ノインシュテルン〉の東部にある町」
老婆は言った。
レイは何も言えなかった。
国境を越えていたのだから。
しばらくして、老婆がふっと息を吐く。
「そんなところで死んだ魚みたいな顔してるんじゃないよ。行くところはあるのかい?」
沈黙。
「……ない」
「じゃあ、うちに来な」
レイは顔を上げる。
「小さい診療所だけどね。人手は足りない」
老婆は軽く振り返る。
「医者の目をしている」
その一言で、レイの足が止まった。
「……なんで分かったの」
老婆は振り返らずに答える。
「長く医者をやってりゃ、分かるさ」
少し間を置いて、老婆は続けた。
「それとも違うのかい?」
レイは小さく答えた。
「……医者だった」
老婆はくくっと笑う。
「そうかい」
そして、ふと首を傾げた。
「名前は?」
レイは目を伏せたまま答える。
「レイ。……レイチェルよ」
「そうかい」
老婆は頷いた。
「私は『ルティー』」
そう名乗ると、老婆はレイに手を差し伸べた。
「よろしくね、レイチェル先生」
その手には、長年メスを握ってきた跡が残っていた。
◇
やがてレイは、ルティーのもとで本格的に医者として働き始めた。
港町の崖の上にある小さな診療所。
崖の下で、波の音が絶えず響いている。
聞きなれない音は、自分がもうあの場所にいないかのように思わせる。
こんな所に人が来るのか。
最初は思った。
こんな場所に、人が来るのか。
だが、そうでもなかった。
漁師、船乗り、旅人。
時には、怪我をした子どもまで運ばれてくる。
レイは相変わらず口数が少なかった。
人を信用することも、まだできない。
それでも、ルティーは何も言わなかった。
過去を聞くこともない。
ただ、医者としては厳しかった。
「そこ、縫い方が甘い。患者を見な。傷じゃない、人なんだ」
だが、人としては優しかった。
誰かに似ているような。
気づけばレイは、彼女を『師匠(せんせい)』と呼ぶようになっていた。
それでも…… 夜になると、思い出す。
ソニアの言葉。
リブロの叫び。
胸の奥が締めつけられる。
苦しくなることも、少なくなかった。
「……死にたい」
ふと、そんな言葉がこぼれる夜もあった。
診療所の一室。
レイはメスを喉元に合わせる。
「……ソニア」
目を閉じる。
その時、後ろから声。
「そんなところで何してるんだい」
ルティーの声がする。
「降りるなら、先に言いな」
レイは振り返らない。
「……死ぬ」
ルティーはため息をつく。
夜の静けさは、波の音を届ける。
「医者は、死にたくても、死んじゃいけないんだ」
レイは沈黙する。
「患者が困るからね。…………人の命を救える人に限りはある。医者の手は人を生かすためにあるんだ」
ルティーはレイに歩み寄り、メスを握る手を下ろす。
そしてゆっくりと、指を1本1本解いてゆく。
「あたしにもあったよ。あんたみたいな時が。でもね、そんな自分でも、自分の手を必要としてくれている人がいたんだ」
ルティーは強い目をしていた。
「いいかい。生きる事は地獄だ。でもね、辛いからこそそこから這い上がるんだ。その先に答えを見つけて」
ルティーは左手にはめていた、腕輪を外す。
黄玉〈トパーズ〉のような石が、あしらわれた腕輪。
それを、レイの手首にはめた。
「レイ。生きろ」
ルティーは強い目で、レイに語りかけた。
レイは唇を噛み締めた。
そして血が滴る。
だが、腕輪は光り出す。
命の輝きを模したような光が身を包む。
みるみると傷が治ってゆく。
「……何よ。これ……呪いじゃない」
レイは声を震わせて言った。
だが、ルティーは、
「これが、医者が生きるってことだよ」
レイはルティーに強い視線を送る。
しばらく、部屋には波の音だけが響いていた。
レイは俯いたまま動かない。
ルティーは何も言わず、メスを机の上に置いた。
「……今日はもう寝な」
静かな声だった。
レイは答えない。
だが、腕輪を握りしめたまま、ゆっくり椅子に腰を下ろした。
その夜は、それ以上何も言葉は交わされなかった。
◇
翌朝。
いつも通り、診療所の扉を叩く音がした。
「先生いるか!」
荒い声。
ルティーは振り返らず言う。
「レイ」
レイは顔を上げる。
「診な」
「……あたし?」
「医者だろ」
それは短い言葉だった。
運び込まれてきたのは漁師。
腕を深く切っている。
血が床に落ちていた。
レイの手が止まる。
頭の奥で声がする。
『お前が……お姉さんを見殺しにしたんだ!』
リブロの声。
胸が締め付けられる。
その時、背後からルティーが言う。
「手が止まってるよ」
「……分かってる」
メスを握る。
震えていた手が、少しだけ落ち着く。
そのまま、縫合を始めた。
葛藤はあれど、その後は手が止まることはなかった。
「……終わり」
レイは小さく言った。
漁師はほっと息を吐く。
「助かった……姉ちゃん先生」
レイは顔を上げる。
その言葉は、自分に向けられたものだった。
ルティーは後ろで腕を組んで見ていた。
そして一言。
「まあ、死ななかったね」
レイはむっとする。
「褒めてるつもり?」
「さあね」
少し間を置いて、ルティーは笑った。
「でもまあやっと医者の顔になってきた」
そして、
「あの先生は無愛想だが腕は確かだ」
いつの間にか、そんな噂が港に広がっていた。
◇
それから、月日が流れた。
崖の上の診療所には、今日も患者が来る。
レイは相変わらず口数が少なかった。
必要なことしか言わない。
笑うことも、ほとんどない。
そのため町の人間は、彼女を少し遠巻きに見ていた。
「……冷たい先生だ」
そんな声も、時々聞こえる。
それでも患者は来た。
怪我は治る。
病気も治る。
だから、誰も文句は言わない。
診療の合間には、裏の小さな菜園を手入れしていた。
薬草と野菜が、潮風の中で静かに育っている。
診療所の灯りは、毎晩崖の上で灯っていた。
ルティーは、そんなレイを何も言わずに見ていた。
◇
ある日の朝。
レイは診療室に入る。
ルティーは椅子に座ったまま、海を眺めていた。
「師匠(せんせい)」
返事はない。
レイは眉をひそめる。
「……ルティー?」
肩に手を置く。
その体は、もう動かなかった。
眠るようだった。
…………脈もない。
レイの呼吸が短くなる。
『(……死んでいる)』
恐る恐る、彼女の顔を見ると、
──笑っていた。
「なんで笑ってるのよ」
ぽつりと呟く。
久々に見た、身近な死。
それは、不思議と恐怖ではなかった。
ただ、静かな終わりだった。
◇
ルティーが亡くなった後。
レイはしばらく、診療を半日にしていた。
残された荷物を整理するためだった。
そんなある日、ルティーが大切にしていた本を見つける。
そこには、一通の手紙が入っていた。
差出人は『オーラン』。
*
レイへ
あんたがこの手紙を読んでいる頃には、
あたしはもういないだろう。
最近のあんたは良い目をしてる。
不器用な医者だけど、悪い医者じゃない。
最後に、あたしの話をしよう。
あたしは昔、北の国で医者をしていた。
名前はオーラン。
聞いた事もあるかもしれないし、
あの組織は、まだ何も言ってないかもしれないね。
最後に、少し説教だ。
医者は名前でやるもんじゃない。
手でやるもんだからね。
────だから、灯りを消すんじゃないよ。
オーラン=アスフェル
*
その名前を見た瞬間。
幼い頃の記憶が、脳裏をよぎる。
ソニアの声。
『私の尊敬する人は、おばあちゃん』
『周りに反対されても、一番危なかった命を助けたの』
『不可能を可能にした人』
『すごくかっこいいでしょ』
『レイもそんなお医者さんになってね』
『もう、この国にはいないけど……きっとどこかで』
ソニアが昔話していた祖母。
『アスフェル』と言う家名。
ソニアの母親の旧姓。
「……嘘」
思わず、声に出ていた。
自分もそんな医者になりたい。
そう思えた、たった一人の話。
レイはふと、窓の外を見る。
崖の上の診療所。
夕暮れの海。
そして、ぽつりと呟く。
「灯りを消すんじゃないわよ…………ねぇ」
レイは腕輪に手を当てて、何かを誓うように。
「……灯りは消さないわよ」
そう言って立ち上がった。
医者に逃げ道はない。
いつだって、命を灯す役目。
それが、彼女の生き方だ。
◇
それから、数ヶ月後。
レイは、ルティーを残したものを受け継ぐ。
診療所名は改めて、『ベレスフォード診療所』。
自分は消されない。
そう誓った名前。
彼女が残した、この場所も、菜園も、意思も。
この場所で。
──夜、灯りがついている。
北の国から海を渡った、港町にある診療所。
それは、白壁の灯台のような診療所。
最果てで、静かに灯り続ける
──命の灯火だった。
*
レイはゆっくりと目を開けた。
診療所の窓の外。
海の向こうに、陽の光が差している。
腕輪に触れ、小さく呟く。
「……灯りは消さない。あんたみたいに、不可能を可能にしてみせる」
そして、レイは立ち上がった。
