3章「白濤の港町」
第31話「 ひと皿の礼、朝の香り - The Foxtrot of Virem’s Kitchen. - 」
毒に侵されたフィリアを助ける為、港町〈グランツ〉まで夜通し走ったヴィレム達。
フィリアは一命を取りとめたものの、ヴィレム達は気難しい医者に追い出されてしまう。
フィリアの様子が気になったヴィレムは、再び診療所に向かい、朝ご飯を振る舞うことになる。
「ふふ……新鮮なお野菜が沢山ですね。これなら、フィリア様の分も作れそうです」
主を救った麗しき女医の朝を彩るため、ヴィレムは静かに手を動かす。
食材ひとつひとつに触れる指先は、舞踏のような、スローフォックストロットのステップのように軽やかで、無駄がなかった。
かまどの奥で火が低く鳴り、執事は炎の色だけを見て、薪を一本足す。
鉄板に置かれたバター生地が応え、層の端から、かすかな音が走った。
焼き色が回るのを待ち、手を出すのは、ちょうどよい瞬間だけ。
網に移されたクロワッサンから、バターの香りを含んだ軽い湯気がほどける。
バターの香りが、静かな厨房にゆっすらと広がった。
背後では、氷と塩を合わせた桶が静かに軋む。
木匙が描く円は一定で、返ってくる抵抗に迷いはない。
止めるのは一度きり。
すくい上げられた冷菓は形を崩さず、皿の中央へと収まった。
包丁が板に触れ、短い音がひとつ。
葉はすぐに揃い、器具は布の上へと戻される。
厨房は、次の声を待つ静けさに整えられていた。
「飲み物は港町風でコーヒーでしょうか?」
「紅茶派よ」
「かしこまりました。食事は揃っていますので、どうぞお掛けになってお待ちください」
◇
朝の柔らかく透き通った日差しが窓から差し込み、朝食を彩る。
金属製のケトルが静かに沸き、湯気が光を受けて淡く揺れた。
執事は手際よくガラスポットに茶葉を入れ、沸いた湯を注ぐ。
透明なポットの中で茶葉がゆったりと開き、琥珀色の液体が日差しに溶けるように輝いた。
香りが朝の空気に混ざり、クロワッサンや冷菓の甘さと溶け合う。
執事はカップアンドソーサーを手に取り、紅茶を注ぐ。
液面がゆらりと揺れ、湯気が光に透けて指先にかかる。
紅茶は静かに朝食のテーブルに座を得て、
焼きたてのクロワッサンや冷菓、ミニサラダとともに、整然と並んだ。
女医は冷蔵庫から瓶を取り出した。
「あんたも食べなさい」
「私は使用人ですから。こうして、自分の作ったものを味わう姿を見ているのが好きなのですよ」
「ふうん。あたしはジロジロ見られているみたいで気に入らないけれど?」
「はは……でしたら、ご一緒に頂きますね」
ヴィレムは自分の分の食事を用意し、椅子に座った。
「そちらは?」
「檸檬の蜂蜜漬けよ」
女医は檸檬を紅茶に浮かべ、一口紅茶を飲んだ。
「……悪くないわね」
「お褒め頂き光栄です」
◇
朝食の皿はすっかり空になり、厨房には紅茶と焼きたてのバターの香りだけが残っていた。
ヴィレムは皿を静かに重ね、朝食の余韻を乱さぬよう音を立てずに片付け始めた。
女医は紅茶を一口飲みながら、対面に座る執事をちらりと見る。
──妙に落ち着いた男だ。
「食べ終わったなら、帰りなさい」
「帰る前に、主の様子を拝見したいのですが」
「見たところで眠っているわ。 それに、大事には至っていない。 明日の朝には返せるから、もう一度来なさい。」
女医は棘のある口調で言い放つ。
ヴィレムは何となく察していた。
この女性は、あまり踏み込まれるのを好まない性格なのだろうと。
そして同時に、思う。
──少しずつ距離を詰めれば、いずれ本音は見える。
朝食を作る前、外で会った老人も言っていた。
『愛想は悪いが腕は確かだ』と。
「分かりました。 主をお願いします、先生」
そう言った時、彼女は腕を組み『ふん』と言って無愛想な返事をした。
◇
昼頃、女医はフィリアの様子を見に行った。
フィリアは女医の手で病服に着替えさせられており、静かに寝息を立てている。
毒により体力を奪われ、深く眠っているようだった。
女医は脈を取りながら、その顔をしばらく眺める。
肌は白く柔らかく、どこか幼い印象を受ける少女。
細く、絹糸のように美しい水色がかった白髪。
体つきはかなり華奢だった。
洗濯したフィリアの着替えをキャビネットの上に置き、女医はぼそりと呟いた。
「フィリア…… まさかね」
女医はフィリアの白い髪を指先でそっと払った。
そう嘲笑するかの様な、複雑な笑みを一瞬だけ浮かべて女医は戻って行った。
